(地名)福武天皇【天皇神社】|西条市福武宮森


天皇神社
天皇神社

愛媛県西条市福武に、福武『天皇』という地名がある。

この『天皇』と言う地名の由来を調べると、

 

崇徳上皇(すとくじょうこう|75代天皇)は、保安4年(1123)数え5歳(満3歳)で天皇に即位し、永治元年(1141)に鳥羽上皇の命令で、天皇の位を弟の近衛天皇に譲り崇徳上皇(崇徳院)となられた。御年23歳、在位19年間であった。

 

崇徳上皇は、保元元年(1156)7月11日に戦われた保元の乱(ほうげんのらん)で後白河天皇・平清盛に敗れた後、京都・仁和寺に逃れていたところを拘束され、23日に讃岐国(香川県)に配流された。そして、8月10日に讃岐に着いた後は9年ほどの日々を送り、長寛2年(1164)8月26日に46歳の若さで讃岐で崩御せられた。

 

崇徳上皇が讃岐にお下りになられし時、皇室の祖伊曽乃神社参拝のため、ひそかに伊予の新居郡に御臨幸される。その御舟が、西条沖から御舟川・天皇川をさかのぼられ、大町村字天皇に御上陸され行宮(あんぐう)を造られ、17日間毎日参詣される。その時、御宸筆「磯野宮」の扁額を第二の鳥居に掲げられた。

 

当時この土地の人たちは、この行宮跡をかしこみて祈念するため、其処に社を建てて天皇の文字を用いて『天皇社』と呼びました。そして、「天皇さんの御腰のかかりたる所」と伝えています。

 

天皇神社は、崇徳上皇が伊曽乃神社にご参拝のとき建てられた行宮の跡地に『素戔嗚尊(すさのおのみこと)と崇徳上皇を祭神する天皇神社が建っていたが、加茂川の相次ぐ氾濫で幾度となくその場所を変え、現在は行宮跡から南東寄りの大字福武宮森1186番地「お天皇さん」に再建されている。

天皇社が再三移転したのは、加茂川は住古武丈から天皇川・御船川筋を流れて、水筋が度々変わった為である。その時代は、河水量は相当多くて、船が上流まで通ったことは、上流に「船形」の地名があることによっても明らかである。

現在は、「天皇神社」として残り『天皇』という地名もこれによると伝えられている。 

 

参考:西条市生活文化誌「第1節地名」P.1229、大町よいとこ、伊曽乃神社社報「磯野」第27号、

伊予温故録:「崇徳院天皇、讃岐に遷幸(せんこう|上皇や天皇が他の居所に移ること)の時、ひそかに伊予の新居郡(現在の西条市)に御臨幸、大町村字天皇(てんのう)と言う地に行宮(天皇行幸の時の仮の宮)を作り、17日の御参拝あり」と伊曽乃神社に記述がある。

 

行宮(あんぐう)=皇帝もしくは天皇が、行幸時あるいは、政変などの理由で御所を失陥しているなどといった場合、一時的な宮殿として建設あるいは使用された施設のことを言う。

 

伊曽乃神社 社報「磯野」第27号より
伊曽乃神社 社報「磯野」第27号より
香川県坂出市公式ホームページより
香川県坂出市公式ホームページより

参考資料:伊曽乃神社志
参考資料:伊曽乃神社志
参考資料:伊曽乃神社提供
参考資料:伊曽乃神社提供





崇徳上皇像
崇徳上皇像

 

崇徳天皇(すとくてんのう) 日本の第75代天皇

 

平安時代後期、元永2年(1119年)鳥羽天皇の第一皇子として誕生。曾祖父は、白河天皇。保安4年(1123年)5歳で崇徳天皇として即位する。

 

 

 

 

 

※天皇が引退すると、「上皇」と呼ばれ、出家すると「法皇」と呼ばれる。


 

保元(ほうげん)の乱

 

保元の乱は、後白河(ごしらかわ)天皇と崇徳(すとく)天皇が皇位の継承をめぐり対立。

 


保元の乱
保元の乱

へんろ道標・首無し地蔵(福武天皇|南海道)

首無し地蔵
首無し地蔵

 

へんろ道標(西条市福武天皇)

【ライスピア米蔵の南側・金毘羅街道(讃岐街道)】

 

大町四ツ辻から仲町小川を経て旧道(南海道・讃岐街道|金毘羅街道)をゆくと国道11号線にでる。 国道を斜めに横切ると南(右手)に見えてくる。 

 

□銘文(梵字)(大師像)是より三角寺(指印) へんろ

□設置:1917年(大正6年)  

首無し地蔵

 

大町天皇の天皇川を渡って、国道11号線道路と旧国道(南海道・讃岐街道|金毘羅街道)の交差点を、旧道沿いに少し東に行くと「お地蔵さん」がおられる。「首無し地蔵」といって首はないが、時々良く似合った小石を、肩にのせて整ったお姿の時もある。

その傍には、大町ではただ二つの(一つは大町四ツ辻にある)のうちの、ひとつの遍路の道標がある。昔は、この道を金毘羅参りやお遍路がよく通った所である。

 

ある年、この部落に悪病がはやり、みんな大変困った。「これは、お地蔵さまの肩にのせた石が、良く落ちるので、赤土か何かで落ちないようにくっつけたために、お地蔵さまがお腹を立てたにちがいない。」といって、首を自由にしてお詫びをした。すると、その悪病がおさまったそうである。

 

この「首無し地蔵」は、むかし、大保木村の人たちが、せっかくお米を作っても、お殿様にほとんど年貢として納め、自分たちは雑穀で命をつながねばならなかったことをあわれみ、銀納にしてほしいとお殿様に訴えた。しかし、反対に大変お怒りを受け、申し出た義民やその家族は首をはねられて刑場の露として消え去った。

 

天皇部落の住民は、この義民たちを大変ふびんに思って、「首無し地蔵」をたてて、その霊を慰めたと言われている。神拝上喜多川のお観音さんで、毎年名物の花火大会が行われる日、天皇部落ではこのお地蔵祭りが行われ(現在は8月23日)、夜になると子供たちが花火をあげて霊を慰めている。そうした、心やさしい子供たちは、首無し地蔵さまに守られて、次々と無事に育っているのである。

 

※西条市生活文化誌「第6節 民話・伝説 第10章 口頭伝承」(P.1553)平成3年4月29日発行 より抜粋。

 

※讃岐街道(金毘羅街道)‥讃岐国(現在の香川県)に通じる道の総称。愛媛県松山市から香川県丸亀市付近へ伸びる道。現在の国道11号線の西部分に相当する。金毘羅街道の一つと言える。

※「四ツ辻」は、宿場町として金毘羅参詣の旅人や四国霊場巡拝の遍路の往来でにぎわった。この四ツ辻周辺には14件のも旅籠(はたご)や木賃(きちん)宿が、ほぼ讃岐街道沿いに並んでいた。この宿のほとんどが昭和10年台前半に廃業した。

※金毘羅街道‥各地と金毘羅宮(香川県仲多度郡琴平町)を結ぶ参詣道として整備された街道。

※銀納(ぎんのう)…金、銀、銅3貨で租税を納めること。狭義には、「金貨幣をもって上納することを金納、銀貨幣で上納することを銀納という。江戸時代の年貢は、米納が原則であった。」


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