1664.11 大保木・銀納義民伝


大保木(おおふき)とは、崖を意味する「大歩危(ほき)」から来た名前で急峻なという意味で、そんな困難な生産条件の下での大保木地区(中奥山村、黒瀬村、大保木山村、西之川山村、東之川山村の五カ村落)の五カ山農民は、米が満足に穫れず加重な物納年貢賦課に苦しんでいた。

 

寛文4年(1664年)、米の不作が続き米価の高騰により米納の為の買米が困難になり生活困窮に陥った為、見かねた中奥山庄屋・工藤治兵衛(くどうじへえ|当時33歳)は、五カ村民の代表となり、米の代わりに年貢を銀(お金)で納められるように西条藩主に死を覚悟して「五カ山庄屋五人連署血判の銀納願」を直訴しました。

(江戸時代は、百姓が藩主にはむかうとただでは済まない時代でした。)

 

しかし、治兵衛らの訴えは認められず、無残にも問答無用のような形で、治兵衛の家族(男子)も含め16人が捕らえられ、1664年11月28日大雪となった寒い朝に、なぎの木さんで処刑(打ち首)されてしまいました。

特に、首謀格の治兵衛一家は子供に至るまで処刑されました。なかでも哀れなのは幼児子(1~5歳?)になる五男・林蔵で処刑の際、太刃取りの役人は恐怖を与えないためか、子供に蜜柑(ミカン)を投げ与えると幼子は喜んでこれを食べはじめたところを後ろから首をはねました。すると、真っ赤な血潮が吹き上がり、頸の切り口から蜜柑の房が飛び散ったという陰惨な話がありました。(西條藩・西條誌より)

それから6年後に銀納は認められ、村の人々の命を救った史実に基づいた事件がありました。

 

中奥山村庄屋・工藤治兵衛ら16名が処刑された翌年(寛文5年7月29日)、庄屋・治兵衛一家の残虐な処刑、諫言した家来への切腹申しつけの件、参勤の遅れなど一柳直興の失政を理由に、一柳家は幕府の裁定により改易となり、直興は加賀の前田家(前田綱紀)へお預け。西条藩は天領つまり幕府直轄地となり、五年後に徳川家康の十男にして紀州藩主である徳川頼宣の三男・頼純が、松平姓を名のって西条松平初代藩主となった。 

 

 

【直興の改易|不届きの子細】

 

一. 禁中御作事始並に御移徙(移転のこと)前、両度上京致すべきの旨、御暇の節、仰せつけらるるの処、御移徙相済以後罷上候事。

一. 今度参勤の砌、煩ついて遅参の段、断の書状延引、且又参府後、気色様体、年寄共まで終に相断らざる事。

一. 常々家中、並領内百姓等の仕置悪しく、殊更内証好色不作法の事。

 

とありますが、「常々家中並領内百姓等の仕置悪しく」の頁は、大保木銀納事件、四忠臣諌死事件等をさすもので、外様取潰の格好の理由であった。

 

 

※工藤治兵衛一家男子

治兵衛(33歳)、長男・利左衛門(15歳)、次男・申松(13歳)、三男・文太郎(11歳)、四男・文四郎(9歳)、五男・林蔵(4~5歳?)。打ち首は、直訴の首謀者に対する厳罰として逆縁(仏教用語:親より先に子が死んでしまうこと)、つまり幼子から順に斬っていった。 

※参考文献:

「西條史談(西條史談かい)」「えひめの記憶(愛媛県生涯学習センター)」「西條誌(日野和煦)」

「銀納義民伝(銀納義民350周年記念事業実行委員会)」「山と日本人(宮本常一)」他 


首無し地蔵

西条市福武の旧国道(南海道・金毘羅街道・讃岐街道)沿いに「首無し地蔵」といって首のないお地蔵さんがおられます。このお地蔵さんの起源をたどると、江戸時代初期、伊豫国西條藩(藩主一柳直興|なおおき)で起こった大保木銀納事件に結びつきます。

忠列四子之墓

寛文3年3月、家臣眞鍋次郎兵衛、岩崎五兵衛、平野文蔵、大田玄兵衛の4人が一柳直興の暴政を憂えて諌死したと伝えられる。

 

大保木・六ヶ山

大保木地区は、「兎之山村」「黒瀬山村」「大保木山村」「中奥山村」「西之川山村」「東之川山村」の六ヶ村(六ヶ山)で構成されていました。



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