巳正月(みしょうがつ/愛媛県東予地方) 12月

 

その年に亡くなった新仏のための正月祝い

巳正月(みしょうがつ)、辰巳(たつみ)正月巳午(みんま)正月

 

 その年に死人(不幸)のあった家では、12月最初の巳の日などに当日(巳の前日、辰の日の夜)、「お餅」を搗いて「わら」と「逆さ巻きしめ縄」を持ってお墓参りに行き、墓前でその餅をわらを燃やしてあぶり、一切無言でちぎって手渡しはせず、刀に刺したり、竹の先に刺して渡して引っ張り合って食べるという四国地方の新仏の正月『巳正月(みしようがつ)、辰巳正月(たつみしようがつ)ともいう』の儀式(習慣)です。餅が長く延びるほど、死者が喜ぶと言われています。 

 500~600年前から続く、愛媛独自の民俗習慣です。

 喋っては行けないのは、敵に悟られないため、刀にこだわるのは、敵を忘れないことを意味するようです。

 

 巳正月は、亡者と最後の食別れをして旧年を脱し、清らかになって新春を迎えようとするものと思われます。12月の「辰の日」の深夜から「巳の日」、または巳の日から午の日にかけて行う。四国地方・瀬戸内海の島々、とりわけ愛媛県の東予・中予地方に色濃く残る風習です。(最近は、辰の日の夕方に行く人が多い。)

 

 この行事は、「仏事」ではなくお寺との関係はないようで、あくまでも民俗習慣で宗教的儀式ではないようです。

 当時は亡くなられた将兵の子孫が行っていた儀式が、地域に広がり愛媛独特の慣習となったようです。新しい正月を迎えるに当たり、死のけがれと決別する行事であろうとされています。また、不幸の二年続いた家では、「二度あることは三度」を嫌い二度目の巳の行事はしないと言われています。また、満中陰法要(四十九日)が済んでいない神仏様の巳正月は翌年にすることが多いです。

 ただ、この行事も大正中期頃から簡略になり、「巳はしません」と張札をしており、昭和30年頃にはその張札も無くなりました。

 

死者が初めて迎えるお盆を新盆といい、初めて迎える正月を巳正月といいます。

12月の最初の辰(たつ)の日と巳(み)の日を、死者のお正月といっています。

辰巳の行事は、正式には辰の日と巳の日の堺、つまり真夜中に行われるものです。

2013年[平成25年]は、 12/4(水)【辰】墓参り→12/5(木)【巳】正月 です。

 

巳正月の起源

巳正月は、時は南北朝時代、1336年にその起源を発します。

南朝、北朝の戦いで南朝方新田義貞の敗走に伴い伊予の国より参じた兵士が琵琶湖の北壁、敦賀付近の木の芽峠付近で猛烈な吹雪にあい、多くの凍死者を出した。その戦死の知らせが旧暦10月(新暦で12月)のの日、巳の刻(午前10時頃)伊予の国元まで届けられた。正月を迎えられなかった兵士たちの無念を慰め、執り行った新亡慰霊儀式が、正月の起源だとする説が一つです。

 

天正13年(1585年)夏の豊臣秀吉の四国征伐(天正の陣)で、周桑平野も新居平野も多くの将兵が死んだ。戦いが終わった後、地元の人々は「討ち死にした将兵たち、また、帰還を待ちこがれていたその家族たちの故郷に帰れず、正月を迎えられず無念であっただろう」と、巳正月をした説が一つです。

 

参考文献:西条市誌(西条市)、西条市生活文化誌(西条市)、西條史談(西条郷土史研究会)

 

 

愛媛の方言

『帰ってこうわい』⇒帰るからね。
『なんしよん』⇒なにしてるの。
『ほしたら』⇒そうしたら。
『ほじゃけん』⇒だから。
『あずる』⇒てこずる。
『きない』⇒黄色。