旧西条藩陣屋「北御門」完成(現西条高校)

旧西条藩陣屋跡(現西条高校)の東側の一角に立っていた「北御門」は、西条藩陣屋に設けられた四つの門の一つで、陣屋と共に1636年に敷地の北側に、旧西条藩の北口を固める御門として建てられました。寛政年間、大手門を現在のものに改築する祭、古いものを北御門として設置、その後、天保六年未(ひつじ)年(1835)に九代藩主松平頼学(よりさと)公がお国入りになられた際、今の様式に直したと伝えられています(開き戸)。北御門は、家老など上級の役職以外の下級武士らの通用門として使われていました。

その後何度か建て直され、現存するのは江戸後期のものと見られます。北御門は1883年に裁判所、1925年に新居郡役所、1936年に武徳殿の正門へと、近辺で移転が繰り返されました。1965年、市から西条高校に無償譲渡され、追手門の北に仮設置されていました。

 

四門とは ‥ 大手門・御庭門・北御門・西御門(門扉の大きい順)

四門は、形式上いずれも「薬医(やくい)門」と呼ばれる部類に入ります。もともと、薬医門は、門としては中位の格式ですが、室町期に至って、武家屋敷の象徴的存在として次第に姿も整い格調高い建物に成長しました。

 ≪御庭門≫ 大通寺の山門がそれであると言われている。

 ≪西御門≫ 荒木満福寺の山門がそれであると言われている。

 

西条藩松平家上屋敷跡は、現在、青山学院大学(東京)である

 

現在、青山学院大学が建っている敷地は、江戸時代には伊予国西条藩松平家の上屋敷でした。西条藩松平家は、紀州徳川家からでた親藩連枝で、徳川吉宗が将軍になったあとの紀州藩に藩主を送り込むなど、宗藩との関係が非常に深い家柄だったそうです。維新の興奮も冷めやらぬ明治4年(1871)、西条藩上屋敷跡地4万坪のうち約3万坪は、北海道開拓使の第1官園となります。東京に3つあった開拓使官園は、いまでいう農業試験場のようなもので、第1、第2官園では野菜・果樹類を育て、第3官園では牧畜、牧草の育成をおこなっていました。当時、青山や渋谷はまだまだ田畑の広がるのどかな郊外で、西条藩上屋敷は、江戸時代に霊山・大山に詣でる巡礼で栄えた大山街道沿いにありましたが、版籍奉還、廃藩置県によって大名が立ち退いたあとは、広大な敷地をぜいたくに使うえるような状況になっていました。開拓使官園が早々と北海道に移転したあと、空いた敷地に目をつけたのが、合併をめざして新校地を探していた2つのキリスト教系学校です。横浜山手に開校していた「美會神学校」と、東京築地にあった「東京英学校」で、これがのちに青山学院大学の原形となります。彼らは明治15年(1882)に、総額6千円で念願の校地を購入し、それ以来、青山の地は青山学院大学の中心となったのです(現在の区画では、渋谷区渋谷3丁目となっています)。

 

元々は青山忠成(松平広忠と徳川家康と徳川秀忠の3代に仕えた家臣)の広大な屋敷がありましたが改易の憂き目に遭い、松平頼純(紀州徳川の祖・徳川頼宣の3男で徳川光圀と徳川家光は従兄弟に当たります)が忠成の屋敷を接収すると、以後西条藩・松平家の上屋敷となりました。

北海道開拓と青山学院:藩邸イルミネーション2[西条藩上屋敷] 」より

 

※西条藩北御門修復工事写真は、こちら

「ホージャ」11/9号掲載
「ホージャ」11/9号掲載
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