伊曽乃神社のお祭りは、俗に秋の例大祭といい、現在は10月15、16日の2日間行います。
祭りの発祥については定かではありませんが、渡御(とぎょ)行列、だんじり等が登場したのは、宝暦11年(1761年)であるといわれています。現在の祭りの運行は、氏子地区を五つに分けて、その五つの氏子地区の氏子総代の中で、年番制で年番常務総代を一人決め、その年番常務総代が大祭委員長となって取り仕切るのです。
御神輿は、何回かの修理が行われ現在に至っているのですが、最初につくられたのは、西条藩初代藩主松平頼純(よりずみ)公の在任の寛文10年(1670年)から正徳元年(1711年)ころではないかといわれております。
その御神輿も、現在は台車に乗せて巡行するので楽になったのですが、昭和42年(1967年)までは2日間の全行程を、担いで巡行していましたので大変な苦労がありました。祭りというのは、その地域の人々が同じような目的で、同じような価値観を持って、同じような様式で、そして同じ土地で祝うものです。したがって、西条祭りは、西条におられる先祖がこの西条の土地で、五穀豊穣を祈り、そして西条の発展を祈った祭りなのです。
それでは、その祭りの中心になる 神様 はどうかというと、
まず伊曽乃神社は、天照大神(あまてらすおおみかみ)と武国凝別命(たけくにこりわけのみこと)です。この武国凝別命の御子孫が、伊予御村別氏(みむらわけし)として繁栄していったといわれており、伊曽乃神社はいうならば、この西条の人々の氏神的な神を祀っているということになるのです。
伊曽乃神社の御祭神は、「天照大神(あまてらすおおみかみ)の荒魂・武國凝別命」。
天照大神は【太陽神】であり、皇室の祖神です。
つまり、天照大神は【太陽神】なので、西条祭りは「日の出とともに始まり、日の入りとともに終る」江戸時代から数百年の続いている伝統あるお祭りです。江戸時代より伊曽乃神社の御神輿は、日の入りとともに帰社しているのです。
しかし、ここ数年御神輿は日の入りとともに帰社できていません。屋台数が増えたといえども江戸時代から続く伊曽乃神社例大祭、平成26年鬼頭会は江戸時代から続く歴史を守ろうと誰よりも考えています。
伊曽乃神社例大祭、平成26年10月16日の統一行動の運行の大きな改革(昼食場所と時間変更)で、氏子は江戸時代からの歴史の意味をもう一度理解し、子供たちに受け継がれなければなりません。
伊曽乃神社の例祭は、古くから京都の「賀茂祭」にのっとたもので、神輿の渡御は「祇園会(え)」に似た所がある。楽車(ダンジリ)は、祇園八坂神社の系統をひくもので、「一名屋台」とも言いますが、二重乃三重乃の家の形をしたもので、屋根は「唐破風造り」になっています。
(備考)
※『賀茂祭(葵祭)』‥葵祭(京都三大祭)の起源は6世紀に遡る。平安京が造営される前の京都では凶作が続いたため、当時の天皇が上賀茂神社と下鴨神社に勅使をおくって五穀豊穣を祈願したのが葵祭の起源とされている。源氏物語にも、葵祭の斎王列を見物しようと、光源氏の妻、葵の上と六条御息所が、車争いを演じた場面が登場する。
※『渡御(とぎょ)』‥神社祭礼でご神霊が神輿・船などのでお旅所等に巡幸する事、神輿による神輿渡御(陸渡御)・船等による船渡御(海中渡御)等がある。
※『祇園絵(祇園祭)』‥祇園祭(ぎおんまつり)は、京都市東山区の八坂神社(祇園社)の祭礼で、明治までは「祇園御霊会(御霊会)」と呼ばれた。貞観年間(9世紀)より続く。
※西条祭りの本来の姿は、御神輿の先導やお供をしながら列を整えて巡行することが特徴です。
Saijo Matsuri 2009 西条祭り from Brad Kremer on Vimeo.