伊予西條藩
第一次西條藩(一柳家|1636~1665年)
西條藩は、慶長5年(1600)関ヶ原の戦の功により伊勢国神戸藩5万石を与えられた大名「一柳直盛」が、寛永13年(1636)に1万8千石を加増され6万8600石に入封し伊豫西條藩が成立しました。
初代藩主一柳直盛は、西條へ赴任の途中大坂(大阪)で病没したため、その遺領は長男一柳直重に西条3万石、二男直家に播磨国小野藩(川之江)2万8600石、三男直頼に伊予国小松藩(小松)1万石として分知されました。
一柳氏は河野氏の支流といわれる外様大名で、2代藩主一柳直重の所領は宇摩・新居・周布の三郡に及びました。直重は入封すると西條平野北部に陣屋を築き、その東西に武家屋敷を配しました。また東の武家屋敷の東隣りに町人町を興して陣屋町を開きました。
西條藩の基礎を築いた直重のあとは長男直興が継いだが、弟直照が土居町八日市に5000石で分家したため、直興が相続した家督は2万5000石でした。しかし直興は寛文5年(1665)、幕府より参勤遅参・京都上院御所の修理を断り、領内仕置の不都合(大保木銀納事件)などの理由で改易され、領地は一時幕府領(天領)となりました。
第二次西條藩(松平家|1670~1869年|10代・約200年間)
その後5年の空白を経て、寛文10年(1670)に紀伊国紀州藩(和歌山)初代藩主徳川頼宣(徳川家康の十男)の次男「松平頼純」が紀州藩の支藩として新たに西條三万石に封ぜられ、紀州徳川家(紀州藩主)が絶えた場合に備えた。
第2代頼致は、紀州藩主徳川吉宗が将軍となったため紀州徳川家・紀州藩主を継ぎました。西條松平家は、参勤交代を行わない定府の大名でした。以後、10代頼英まで続いた西條藩は連枝として特別待遇され、また和歌山藩との交流も密接でした。
歴代藩主は江戸定府で参勤交代をすることがなかったので、藩主の入国はまれで、生涯を通じて領国に足を踏み入れない藩主もみられた。初代藩主頼純は、就封の年に初めて入国して以来、元禄7年(1694)、同11年、同15年、宝永6年(1709)の5度にわって領国西條を訪れている。しかし、以後頼純のほか2代頼致、3代頼渡、その後西條藩主の入国ははなく106年目の天保6年(1835)に9代松平頼学が入国すると8カ月滞在し領内を巡察しました。文久3年(1863)10代頼英が西條に入封したが、家督を継いでわずか5年で大政奉還となった。
第2次西條藩10代の藩主の入国は、およそ200年間で僅か9回のみであった。
※西條藩(さいじょうはん)は、江戸時代の藩。伊予国新居郡西條(現在の愛媛県西条市)周辺を領しました。藩庁は西條陣屋。当初は外様藩であったが、徳川御三家の一つ紀州徳川家(紀州藩)の支藩となりました。 紀州家と西條家の関係は、徳川宗家と御三家の関係と同じであった。
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伊予西條藩の初代藩主|松平頼純公
松平頼純(まつだいらよりずみ)は、伊予西條藩の初代藩主。
御三家の一つである初代紀州藩主・徳川頼宣の次男。初代将軍・徳川家康は祖父。兄は徳川光貞。徳川吉宗の叔父、徳川家光や徳川光圀の従弟にあたる。正保2年(1645)に将軍家光に御目見する。承応3年(1654)に従四位少将左京大夫に叙される。寛文10年(1670)30歳で就封して伊予西條3万石を与えられ大名に列する。
正徳元年(1711)、江戸にて死去した。享年71(満70歳没)。家督は五男・頼致が継いだ。
※伊予西條藩2代藩主 松平頼致は、享保元年 紀州藩5代藩主 徳川頼方が、徳川8代将軍 吉宗となった後、紀州藩6代藩主 徳川宗直となる。
※伊予西條藩5代藩主 松平頼淳も安永4年 紀州藩本家を継いで9代藩主 徳川治貞となり、更には、伊予西条藩10代藩主 松平頼英の弟、頼久も紀州藩14代藩主 徳川茂承となったほか、紀州藩からは、7代藩主 徳川宗将の二男頼謙が、伊予西条藩6代藩主となるなど、宗家、分家として格別深い間柄でありました。