「西條祭絵巻」に見る西条祭りの歴史!


 

 

西條祭絵巻 

 

というのが、伊曽乃神社の資料館にあります。(長さ:26.5m 幅:35cm) 

これは、もともとは仙台の伊達家にあったものです。話によりますと、江戸時代に江戸城中の大広間で、仙台の殿様(藩主伊達候)がお国の祭り自慢に花を咲かせていた時に、西条の殿様(9代藩主松平頼学(よりさと)候)が、「そんな祭りなど問題ではない。西条の祭りを見てから言ってほしい。」と、それを絵巻物にして、仙台の伊達侯に贈ったのです。

それがずっと伊達家に伝わっていたのが、昭和25年(1950年)に東京博物館の近藤喜博調査官の紹介で、伊曽乃神社へ戻ってきたのです。これは、幅は35cmなのですが、長さが26.5mもあり非常に長いものです。したがってこの絵巻物を全部見る機会は、めったにありません。資料館に行きましても、そのうちの一部分で、5mぐらいの部分が出ているだけなので、全体が見えにくいのです。しかし、これをカラー写真に撮って、「西条市こどもの国」の1階に展示しておりますから、今日帰りにでも行って見てください。 

その絵巻物が描かれたのは、江戸中期だと思うのですが、そこにはダンジリ18台、神輿太鼓5台、船ダンジリ、鬼頭、鉄砲組、奴、神輿、諸道具類などを描いた『御神輿の渡御行列図』、西条藩士の礼拝する様子を描いた『御殿前略景』、御旅所の賑わいを描いた『御旅所略景』、『小供狂言之図』からなっています。

そして、そのだんじりの行事に参加している人は町民でありながら、裃(かみしも)を着て、脇差しを差しておりまして、祭りの日には士農工商の区別がなく、藩をあげてお祝いしていたということがうかがえます。 

 

ところで、その西条祭りですが、伊曽乃神社のお祭りが、現在は10月15、16日ですが、こうなりましたのは昭和15年(1940年)に伊曽乃神社が国幣中社に昇格した時からです。それ以前は9月14、15日でした。さらにさかのぼって、江戸時代西条藩に松平家が来る前は、一柳(ひとつやなぎ)家だったのですが、その二代目藩主一柳直重(なおしげ)が伊勢(今の三重県)からきた時に、現在の西条高校の所に陣屋を築いたのです。しかし、それ以前は、西条高校のところが伊曽乃神社のお旅所であり、9月1日に神社を出られた御神輿がそこに来られ、9月15日まで泊まられ、それからお宮へ帰られたのです。したがって、現在のお旅所が大町村常心原になったのは、一柳直重が陣屋を築いた後なのです。また、この絵巻を見ますと、船だんじり、あるいは御供だんじりが描かれておりますが、これらは現在は全然残っておりません。これは、運行が遅いので、御神輿についていけないというようなことで、たぶん自然にすたれたのだと思います。 それからもう一つ、西条祭りの囃子に出てくる伊勢音頭は、一柳直重が伊勢からきた時に一緒にきたのかなと思っていたのですが、実際はお伊勢講に関係があるのです。つまり、江戸時代には、伊勢へのお参りが盛んで、その伊勢にお参りする伊勢講の連中が集まって歌っていた伊勢音頭が、一柳家やお伊勢さんと直接関係のない所でも、広く歌われていることから、古くから歌われていたことが分かります。 

祭りというのは、その地域の人々が同じような目的で、同じような価値観を持って、同じような様式で、そして同じ土地で祝うものです。したがって、西条祭りは、西条におられる先祖がこの西条の土地で、五穀豊穣を祈り、そして西条の発展を祈った祭りなのです。

それでは、その祭りの中心になる神様はどうかというと、まず伊曽乃神社は、天照大神(あまてらすおおみかみ)と武国凝別命(たけくにこりわけのみこと)です。この武国凝別命の御子孫が、伊予御村別氏(みむらわけし)として繁栄していったといわれており、伊曽乃神社は、いうならば、この西条の人々の氏神的な神を祀っているということになるのです。石岡(いわおか)神社は、気長足姫命(おきながたらしひめのみこと)(神功(じんぐう)皇后)と誉田別命(ほんだわけのみこと)(応神天皇)を、橘(たちばな)地域あたりの氏神として祀っておりました。それが、松平家が藩主となってからは、藩神となったのです。飯積(いいづみ)神社は、いわゆる飯積の飯は、お米を表し、豊作の神様である倉稲魂命(うかのみたまのみこと)を祀っております。この三つの神社の中で一番古いのは、石岡神社で、宝暦7年(1757年)にできたと伝えられており、伊曽乃神社がそれより4年後の1761年にできたと伝えられております。そしてもう一つ、現在のだんじりの元は石岡神社から始まったと言われております。つまり、石岡神社の別当寺(べっとうじ)(神社と経営が一体になっている寺)である吉祥寺(きつしょうじ)のお坊さんが河内国(かわちのくに)の誉田八幡(こんだはちまん)神社(今の大阪府羽曳野(はびきの)市)の「籐花車(とうだんじり)」を見て帰って、それに模して竹でだんじりをつくったといわれており、これが西条祭りのだんじりの始まりと考えられております。

 

☆彡【文献】愛媛県生涯学習センターhttp://www.i-manabi.jp/index.phpより引用。


※江戸時代後期の伊曽乃大社の祭礼を極彩色も鮮やかかに描いた絵巻物で、制作年代は、天保時代前後(1840年代頃)と推定されます。 

※では、何故格式の厳しい時代に62万石の大々名・伊達の殿様と3万石の西条松平家の殿様が江戸城内で雑談が出来たのか?伊達家は伊達政宗を藩祖として従四位上・陸奥守と格式高く、西条松平家初代の頼純は御三家の紀伊徳川頼宣の次男で家康の孫にあたり、紀伊家に後継ぎの無い時は西条松平家が紀伊家を継ぎました。この様なことで、御三家連技従四位上・少将と格式が高く大広間で同室となって前記のような話が出来ました。 

※この絵巻を見ますと、「船だんじり」が描かれておりますが、これらは現在は全然残っておりません。これは、運行が遅いので、御神輿についていけないというようなことで、おそらく自然にすたれたのだと思います。

 

(参考文献)

西条市誌(西条市)、西条市生活文化誌(西条市)、西條史談(西條史談会)、続・西條のお祭り(吉本勝)、伊曽乃神社祭礼絵巻(伊曽乃神社)、伊曽乃神社御昇格五十周年記(伊曽乃神社)、伊曽乃祭礼楽車考(佐藤秀之)、愛媛新聞(愛媛新聞社)、愛媛県生涯学習センター資料。